Under the rose.


城内には、それは見事な美しい薔薇が咲く薔薇園がある。
なんでも王が寵愛していたいまは亡き王妃が薔薇をこよなく愛した方だったらしく、王は王妃のためにわざわざ作ったのだそうだ。
王妃亡きあとも庭師たちが丁寧に世話をしているおかげで時期になれば園は色とりどりの薔薇で埋め尽くされた。

そんな園に一歩踏み出せば、強烈な香りが鼻腔を刺激した。あまりにも濃厚さに思わず眉間に皺が寄る。
この時期になると一斉に咲くため園中に匂いが充満するのだ。数え切れないほど足を運んでいるが、いまだにここの匂い慣れることはない。
しかし、ここで回れ右などできるはずもなく、覚悟を決めて足を踏み入れる。
一歩一歩進むごとに匂いはどんどん濃度を増していく。これではまるで花の蜜に誘われる虫のようだ。だが、こんなにまで誘惑する花が咲き乱れていても虫一匹も見あたらないのは一重に庭師たちの努力の結果だろう。
そして、中央あたりに近づいたところで目的の人物を見つけた。自分に背を向け、なにやら薔薇の花弁に触れている。薔薇には棘があるから無闇に触れるなと口酸っぱくいっているのに繰り返す人物の行動に呆れながらもその背中に声をかけた。

「姫」

呼びかけると人物が振り返る。
彼女―――自分が仕えるこの国の姫君は相手が自分だと分かると微笑みを浮かべた。

「ああ、君かディバン」
「またこちらにいらしたのですね」
「ここはお気に入りの場所だからな……つい、来てしまうんだ」

再び視線を薔薇に戻して苦笑する姫。そのせいで探す身にもなって欲しい。かといって過去の経験からいっても反省などしないことは重々承知なのでもう口にする気にもならない。

「そんなに薔薇が欲しいなら庭師に頼んで部屋に持ってこさせればよろしいのに」
「君は分かっていないなディバン、せっかく庭師が手塩をかけてここまで育ててくれた薔薇を切り取るなんて……そんな無粋なことはしないさ」
「……花など、枯れてしまえばどれも一緒ではありませんか」
「そういうところが無粋というんだ。それを庭師にいってみろ、この薔薇園に一歩も入れなくなってしまうぞ……ああ、もう過去に一度やっていたか」

ニヤリと一国の姫君らしからぬ意地悪い笑みに言葉を詰まらせる。
なにも言い返せず、黙って視線を泳がす。姫はその様子を楽しそうに眺めた。
思い出したくない過去だ。それを知っていて弄ってくるから姫も人が悪い。いや性格が悪いというべきか、いったら騎士の立場でいられないのでいわないが。

「それで、君が探しに来た用は?まさか君ともあろう者が私に会いたいがために来たわけではあるまい」

父親譲りの翡翠色の瞳がじっと自分を見つめる。まるでなにもかも見透かすような眼差しに心臓が脈を打つ。
姫のいうとおり、自分は用があってこの薔薇園に訪れたのだ。そのようなやましい気持ち、断じてない。あってはならない。
内心戸惑いながらも顔に出さぬよう、無表情を徹して首を横に振った。

「いいえ、王がお呼びです」

王、という言葉を口にした途端、姫の笑顔が消えた。そうか、とそっけなく返して薔薇の花弁を撫でる。

「なら、例の縁談が決まったのかもしれないな」

瞬間、脈を打っていた心臓が大きく跳ね上がった。
騎士ともあろう者がこれぐらいで動揺など情けない話だ。しかし、落ち着かせようとする意思とは裏腹に心臓はさらに早鐘を打ち続ける。
縁談。その言葉が胸に重くのし掛かる。分かっていたはずなのに、彼女の口から出た一言で酷く動揺してしまう。
幸いだったのは自分の表情筋が固いおかげでそれが表に出なかったことだ。
姫はそんな自分の内情だと気付くはずもなく、薔薇を愛でる手を止めない。

「顔も知らない男の元に嫁ぐか、一体どんな男だろうな」
「聞く限りによれば、とても穏やかな性格の持ち主で民からも慕われているとお聞きしました」
「なんだ、君はもう知っていたのか」
「いえ、城の者が噂しておりましたので……」

本当は王から直々に聞かされたのだがいう気にならなかった。姫も納得したのか「そうか」の一言で終わった。
その一言がこの話題を触れてほしくないという意図がすぐに伝わった。お互いなにも話そうとせず、沈黙が薔薇園の中で流れる。話すタイミングが掴めず、黙って姫の背中を眺めることしかできない。
このまま帰る訳にもいかず、何か話そうと口を開こうとしたら先に姫に呼ばれた。

「ディバン」
「はい」

背を向けた体が自分の方へ向き直る。一体どうしたのだろう、気になって声をかけようと前に自分の目の前に何かを突き出した。
深紅の薔薇だった。毒々しいほどの色彩を放ち、魅惑的な香りを漂わせる。
ずっと横を向いていたため気づかなかったが、どうやらずっと手に持っていたらしい。
しかし、その一輪の薔薇を見て眉を寄せる。

「……先ほどといっていた事と矛盾していませんか」
「庭師がくれるといったからもらったまでだ。よかったら君にあげよう」
「私に?」

生憎、自分には花を愛でる趣味などない。姫が一番それを一番知っているはずだ。

「私にそのような趣味は……」
「別に部屋に飾るくらいいいだろう」
「はあ……ではありがたく」

さすがに姫から頂いたものを無下にはできない。少し戸惑いながらその薔薇を受け取ろうと手を伸ばす。茎を握ろうと伸ばした指先が姫の指に触れてしまう。
刹那、激しい動悸に見舞われた。襲われる高鳴りに戸惑いを隠せない。自身に危機感を覚え、顔に出る間にすぐさま薔薇を貰い受けて一歩下がる。自分の行動に姫はきょとんとした顔で見上げてきた。

「どうかしたのかディバン」
「いえ、なんでもありません。姫、そろそろ時間が」

これ以上追及されないようにさりげなく話題を変える。そこで姫も自分の用事を思い出したようで躊躇いがちに視線を落とした。

「そうだな、これ以上父上を待たせられない。ディバンは」
「私は他に執務がありますので」
「そうか、それなら仕方がない。面倒だが行って来る」

乗り気ではないという態度を隠さず、自分の隣を横切っていく。姫を見送るために辞儀をした際、靡いた髪から微かに薔薇の香りが薫る。後ろ髪引かれる思いを抑えて姫が立ち去るのを待っていると突然姫が立ち止った。

「そうだディバン」
「なんでしょうか」
「その薔薇、いらないなら捨ててしまってもかまわないから」

背を向けていたため表情は分からなかった。姫はそれだけ言い残し、自身が声をかけるよりも先に足早で薔薇園を立ち去ってしまう。
一人薔薇園に残されてしまい、茫然と立ち尽くす。姫がいなくなったことで再び薔薇園は静寂に包まれる。姫が立ち去った方向を見つめたまま、先ほどの姫の台詞が頭を過る。

『その薔薇、いらないなら捨ててしまってもかまわないから』

「……そんなこと、できるはずもないのに。貴女は酷い御方だ」

抱いた思いが口から零れ落ちる。その声は自分でも笑ってしまうほど情けないものであった。あまりの情けなさに嘲笑を浮かべる。
一人自己嫌悪に陥る中、ふとあることを思い出した。

(……そういえば、姫に触れたのは何年ぶりだろう)

たった一瞬、しかも手袋越しであったはずなのに、触れた指先はいまもなお熱を帯びている。自分のような傷だらけで武骨な手とは正反対の、触れるのさえ躊躇ってしまうほど傷一つもついていない美しい手。
一昔前まで、それを当たり前のように触れていた幼い自分が恨めしく、同時に羨ましかった。
そこでハッと我に返った。

(いま俺はなんてことを考えたんだ)

相手は姫君だ。そして自分は、彼女に仕える従者。そのような感情を抱くなど絶対にあってはならない。
自身を叱咤するも、手の中に収まる薔薇を見てしまうとその思いも簡単に揺らいでしまう。
赤い薔薇、情熱的な色なのにその強烈な匂いは人を惑わす。
清廉潔白な姫君には不釣り合いな花なのに、姫の髪から香ったせいで嫌でも脳裏に浮かんでしまう。
誘われるように薔薇に顔を寄せ、軽く吸い込むと鼻腔を通して薫る匂いに目眩を覚えた。
その薔薇の香りが、姫を、彼女を思い出させて胸を締め付ける。
苦手だと思っていたはずなのに、彼女に繋がると思うとこんなにまで心掻き乱す。なんとも単純な思考回路だろう。
だからこそ、絶対に知られてはならない。握る手に力が籠る。

(そう、全て隠すのだ)

この匂いも、この熱も、この思いも、すべて薔薇の下に埋めてしまえ。
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