水面にうつる紅


遠くで船の汽笛が聞こえる。鼓膜を震わせる轟音はジャンマリアの機嫌をさらに急降下させた。日が昇り始めて明るくなった空によって少しずつ周囲が分かるようになる。ジャンマリアはわずかに見え始めた地平線から、すぐ下の海へと視線を移す。
(なんて、汚い色なんだろ)
ジャンマリアは海に浮かぶ物体を顔をしかめたまま見下ろした。先ほどまで人だったもの。しかし、裏切り者として成り果て、ジャンマリアの目の前で消された。撃たれた箇所から血が吹き出し、泥色の海に混ざって赤黒くなっている。ジャンマリアにはそれがひどく汚らしく写った。

「ジャン」

背後から声が聞こえると同時に肩になにかがかかる。手を当てると上着であった。顔を上げると自分よりもずっと背丈のある部下のルカが見下ろしてくる。

「なにルカ」
「……」
「ああ、ごめんねルカ。別に寒くはないよ、ただどうしてここの海は汚いんだろうなって思っただけ」

心配かけてごめんね、と謝るとルカが無言で首を横に振る。本当は少し肌寒かったのをルカは気づいていたらしい。目が見えないというハンデがあるのに、いやあるからこそ気配に敏感なのかもしれない。そのハンデを生かして、海に浮かぶ人を物体に変えてしまうからすごいところである。
ルカがかけてくれた上着に顔を埋めるとルカがつける香水の匂いが鼻腔をくすぐる。甘すぎない、大人の匂い。ジャンマリアはその匂いがとても好きだった。さっきの汚い光景を忘れさせてくれる。

(そうだ、あれがルカだったらよかったんだ)

もしもここが溝色の海ではなく、所有するプールだったら。
もしもあれが裏切り者ではなく、大好きなルカだったら。
きっとあんな薄汚れた赤黒い色などしてなく、綺麗な綺麗な紅色が水面に浮かぶのだろう。

(きっと綺麗だろうな)

ジャンマリアの薄桃色の唇から恍惚とした吐息がこぼれる。その吐息がルカの耳に入ったようでルカが首を傾げた。

「ジャンマリア?」
「ううん、なんでもない」

心配する声色に今度はジャンマリアが首を振る。
もしいまルカに先ほどジャンマリアが考えたことを命令すれば、従順なルカはきっと喜んでしてくれるだろう。
しかし、たとえジャンマリアが美しいと思ってもそれはジャンマリアに命を捨てろといっているようなもの。
この中年の男は、ジャンマリアにとってなくてはならない存在なのだ。それをなくすなど、考えるだけでぞっとする。

(水面に浮かぶ紅が美しくても、それでルカがいなくなるなら見えなくてもいいや)

うんうんと一人で納得するジャンマリアの気配に気づいたルカはまた不思議そうにルカを見つめる。きっとサングラスで遮られた目はきょとんとしているに違いない。年相応らしくない行動が可愛らしくてルカに気づかれないように笑いを堪えた。
こんな何十も年下の子供にかわいいと思われる中年もどうなのだろう。しかし、そんな中年をかわいいと思えてしまうジャンマリアもジャンマリアなのかもしれない。

「さあ帰ろうかルカ、僕はおなかすいちゃったよ」

ルカの手を取って握りしめるとルカも同意して握り返す。先ほどの物体などもうジャンマリアの頭から消え去っていた。ルカを導くように手を引いて歩き出す。遠くで船の汽笛が耳に入った。しかし、もうジャンマリアの耳には入らない。いまのジャンマリアは今晩ルカとなにを食べるか考えるのでいっぱいだ。
そうして、二人が消え去った港の海で、人だった物体はゆっくりと赤黒の海の中へと沈んでいった。




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